錦糸町 眼科 かじわら アイ・ケア・クリニック

日本人の緑内障に本気で取り組む。たった“一人”の眼科医の挑戦

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日本人の緑内障に本気で取り組む。たった“一人”の眼科医の挑戦

2021年12月29日《NEWSPICKS》掲載

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「緑内障の患者数は今や国内で500万人と言われています。日本人の20人に1人の割合です。これほど多い病気は他にありません」。

そう語るのは、『ハーバード × スタンフォードの眼科医が教える 放っておくと怖い目の症状25』(ダイヤモンド社)の著書で知られるかじわらアイ・ケア・クリニックの梶原一人(かじわら・かずと)氏だ。

梶原一人(かじわら・かずと) 慶應義塾大学医学部卒。ハーバード大学研究員、スタンフォード大学リサーチ・アソシエート。日本人初のハワード・ヒューズ・メディカル・インスティテュート奨学生。北里賞受賞。2006年、「眼科 かじわら アイ・ケア・クリニック」開設。

 

日本の失明原因第1位である緑内障は、長い期間をかけて視野が欠けていき“超慢性”に進行する病気だ。

「かじわら アイ・ケア・クリニック」は「緑内障治療をデザインする®」クリニックとして知られ、そんな緑内障患者の駆け込み寺となっている。

世界屈指の名門であるハーバード大学やスタンフォード大学で研究者として留学していた経歴を持つ梶原氏だが、実は最初から緑内障を専門にしていたわけではなかったという。

なぜ彼は緑内障予防のために動くことになったのか。

そこには、彼が日本国内に蔓延するある危機感があった。

 

◆31歳でハーバードへ。空き缶拾いで生計の足しに

梶原氏の父は外科医で基礎医学の研究者。当時の基礎医学者の給料は安く、小さい頃は家も貧しかったそうだが、梶原氏は医師を志し、慶應義塾大学医学部に入学した。

「眼科医を選んだのはマイクロ・サージャリーという顕微鏡下での手術をやりたかったからです。子供のころから父の研究室で顕微鏡を見るのが好きでした」

「今は内視鏡手術もありますが、当時の選択肢は眼科と脳外科、手の神経をつなぐ外科くらい。なかでも白内障の手術が多い眼科に憧れました。白内障は濁ったレンズの代わりに手術で綺麗なレンズ入れると魔法みたいに治る。患者さんがすごく喜んでくれるし、やりがいもありそうだなと思いました」

ただ、実際は白内障以外の目の病気では不治の病も多く、国立医療センターで1年半働いた後、日赤病院の部長として栃木県に赴任した梶原氏は、次第に無力さを痛感したという。

「緑内障もそうだし、網膜剥離も今のような治療技術がなく、10%ほどの割合で失明していました。特に印象的だったのが、FEVRという病気の患者さんを担当したこと」

「手術して一旦よくなっても、また悪くなるということを繰り返す遺伝性の珍しい病気で、結局、失明してしまった。こういう病気を治すにはどうしたらいいのかと真剣に考えるようになりましたね」

そうした病気の原因を突き止めることで治療法を開発したいと考えた梶原氏は、1990年、31歳で眼科先進国であるアメリカの名門ハーバード大学に研究員として留学する。

「ハーバードから来日した学会のゲストスピーカーと仲良くなったこともあり、アメリカ行きを決意しました。ただ、無鉄砲でしたね。学生時代から留学を考え英語の勉強こそしていましたが、医学博士の学位がなく留学資格もなかったので、日本の奨学金制度にことごとく落ちて。母親の土地を抵当に入れて20年ローンを組みアメリカへ行きました」

勢いで現地に行ったけど奨学金をもらえず、無給の研究員で日本での貯金を取り崩しての生活。

ホームレスに混じって空き缶を拾い、路上で歌を歌ってお金を貰ったりしたこともあったそうだ。

 

◆留学わずか1年半で「ネイチャー」誌に論文が掲載

「他の留学生は国費で給料が出るんですが、私の場合は完全に無給。それでもよい研究がしたいと、自分で直接交渉して研究所に潜り込みました。しかも、日本でも私は遺伝子研究の経験がなく、本当にゼロからのスタートでした」

梶原氏はそこで眼科領域では非常に有名な遺伝性の難病「網膜色素変性症」の研究をする。網膜の遺伝性の異常で、ある時期から夜など暗いところで目が見えにくくなり、最悪の場合は失明に至る病気だ。

「変性症とは、遺伝子の突然変異であるときから発症して、最終的に機能が失われる病気のことです。昔は暗い場所で見えにくくなる“鳥目”ってビタミンAの欠乏症が主でしたが、網膜色素変性症は遺伝子の異常で感度が悪化し、視野が狭くなっていく。当時は遺伝が原因とはわかっていましたが、原因遺伝子の特定まではできていませんでした」

なんと、留学一年半で梶原氏の論文は世界的に権威がある英科学誌 『ネイチャー』に掲載された。

「私が留学した1990年に世界で初めてロドプシンという遺伝子の異常で網膜色素変性症になることがわかったんですが、ロドプシンの異常でこの病気になる人は2%のみ。では、二番目はなにか。それを探していた時期にその最先端を行く研究室に入り、二番目の原因遺伝子を発見できました。続けざまに三番目の遺伝子も発見し、その論文は米科学誌『サイエンス』 に掲載されました」

「人間の体質というものは、1個の遺伝子で決まるのではなく、遺伝子のさまざまな組み合わせで決まります。私の発見はその組み合わせの中で最もシンプルな2つの組み合わせで病気になることを、高等生物で初めて示した画期的なものです」

科学誌の両雄『ネイチャー』『サイエンス』 に論文に掲載され、アメリカ人研究者でも超難関のハワード・ヒューズ・メディカル・インスティチュートの奨学金を日本人で初めて授与された梶原氏。

だが、彼の探求はここで終わらなかった。

◆「自分の研究はいい仕事だが、患者を治せない」

「三番目の遺伝子まで見つけても、変性症の原因となる遺伝子があといくつあるかもわかりません。おそらく、すべて発見するだけで一生かかっても足りません。しかも、当時は遺伝子治療が有望視されていた時代なので、原因の遺伝子が特定できれば、治療につながると期待しましたが、それもどうやら難しいことがわかった。自分の研究はいい仕事だが、患者を治せない。そんな思いが強くなりました」

そして、梶原氏は難病の治療には再生医療のアプローチしかないと考え、4年間を過ごしたハーバード大学を去ることになった。

今度は神経の再生に関して先進的な研究をしていた米スタンフォード大学へ移る。次の研究対象は、なんとイモリだった。

「イモリって網膜を再生する唯一の動物で、眼球を一度取り出しても眼球が壊死せずに復活し、神経が脳まで繋がるんですよ。これは研究するしかないと思いました」

「が、結局これも勉強するほど、逆に僕が生きている間に患者さんを治すことはできないことがわかってしまった。移植して網膜が再生して定着しても、神経が脳へ情報を伝えられないんです」

困難を解決すべく、新たな分野に目を向けると、また新たな困難が訪れるーー。

梶原氏の中には常に葛藤が続いた。

スタンフォードでは7年間研究に打ち込み、世界最高峰の大学で計11年間研究を続けていた梶原氏。

すでに40歳を目前にし、医師として残された人生には限りがあることを強く意識せざるを得なかった。

「この後の人生は早期発見で救える患者さんを救いたいと考えるようになりました。僕は自分の気持ちだけで無理難題に挑戦しましたが、研究者は業績を出し続ける必要があるので、次は重箱の隅つつくような研究をしなければならない」

「奨学金もあったし、ある日本企業が生活費や研究費を出してくれていたんですが、共感してくれる企業に対して恩返しができないと思うと、そのまま続ける気にはなれなかったです」

アメリカでの研究の日々から、梶原氏はここで大きな決断を下す。

 

◆北海道や石垣島まで。なぜ人々は梶原氏の元へ集うのか

こうして2006年に開業したかじわらアイ・ケア・クリニックは約15年間で累計8万7000人以上の患者が来院。

患者数は増え続け、多い日は1日120〜150人の患者が受診する。受け持ち患者の7割は緑内障で、残りのうち約3分の2はレーザー治療が必要な飛蚊症・網膜剥離の患者だ。

「緑内障はとても複雑な病気です。緑内障患者の数だけ病気の種類があると言っても過言でありません。個人差が大きく、患者さん毎にカスタムメイドの治療法が必要なのです。それが「緑内障治療をデザインする®」ということです。

「が、日本の医療制度の中では緑内障には画一的な治療しかできないのが現状です。当院ではデータを綿密に蓄積しながらその人に最適な治療目標を立て、これに沿って治療を進めました。そんな完全個別対応が評判をいただいているようです」

現在、梶原氏は手術については提携先の医院に紹介する方式をとっている。自身は手術の前段階の検査によるスクリーニングに舵を切り、“交通整理”に注力している。

「緑内障を早期発見できないまま、症状が悪化する人があまりに多いのです。OCTという検査機械の進化もあり、先入観を捨て、怪しいと感じたら若い人でも積極的に検査します。20代、30代でもかなり進行しているケースは少なくありません」

「緑内障は進行を遅らせることしかできないので、昔は70歳まで保てば御の字でしたが、人生100年時代と言われるいま、そこから更に30年間、目の健康寿命を伸ばすのは至難の技です。より早期発見が重要だと感じています」

異常がなければ検査代は無料でほぼボランティアの状態だというが、今では文字通り北は北海道、南は沖縄石垣島といった遠方から通院する患者もいるというから驚きだ。

「今後はジョイント・ベンチャーを立ち上げてクリニックの外にも共に働くチームをつくりたいと思っています。緑内障診断は網膜の単純なパターン認識で成り立つので、胸部レントゲンの画像診断などより遥かにAI診断が簡単なはず。しかも当クリニックは正常者と緑内障患者のデータを日本一多く持っています。メーカーと共同でソフト開発し、企業検診を展開するなど、多くの人を救える検査環境を整えたいと考えています」

アメリカの名門大学で最先端の研究に触れていた彼が、40歳を過ぎて錦糸町で緑内障予防に尽力したその過程を知れば、今の覚悟が並大抵のものではないことがわかるだろう。

一人でも、一秒でも早く緑内障で辛い思いをする人を減らしたいーー。梶原氏の大いなる目標への道のりは、まだ始まったばかりだ。

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